青天井と対面式

自称マイナーな人生・趣向で生きてきたブログ。現在デザイン各種調整中!

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高校卒業から就職までの1年半。家庭の変化と職業黒歴史。

高校卒業した私は大学か就職か悩む事になります。

けれど実際就職したのは高校卒業から1年と半年以上経ってからでした。勿論大学にも行っていません。

 

色々ありました・・・記憶が多少うろ覚えだったので履歴書とかメール一覧引っ張り出して思い出しました・・・・。家庭環境で父親や伯母にも色々あったんです。

 

前回の高校まではこちらの記事から↓ 

shibayanagi.hatenadiary.com

 

高校では"将来役に立つだろう"という名目でPCの資格取得をするようよく言われていました。なので一応ワープロやワードの資格は持っています。

先生達から言われてたからであって私自身あまり乗り気じゃなかったんですけどね・・・だから今となっては学んだ事全く覚えてないです・・・。

 卒業する前からどこかに就職しようかとあちこち面接しましたが見事落ちました。縁がなかったとしか言えません。

 

大学への道も考えてた私は、とある地元の専門学校へ見学に行きます。もう5年以上も前ですがこの時の事は今でもハッキリと覚えています。

そこは漫画・アニメ・声優などの専門校で当時漫画部門に興味があった私はそこを見学しました。というか体験学習も兼ねてましたね。

・・・本当に楽しそうな所でした。卒業生の作品を見て『こんなにも絵が上手くなった』『こんな漫画家への道もある』という絵を見せてもらって凄く行きたくなりました。

講師の指導も的確で、赤ペンで修正された絵は見違えるようで。「漫画家になりたい!」とは思ってなかったですが、「絵が上手くなりたい!」という一心でした。

 

ですが体験学習でのこと。自分の好きな曲を聞いて、そのイメージを漫画にして書くというお題が出ました。

 

・・・・その時、驚く程描けなかったんです。自分でもビックリする程人体が描けなくて。

他の子はそれなりに描けているのに、私は1コマ目から先に進めない程でした。

 

・・・・本当にショックでした。実力の差を思い知らされたんです。

『こんなにも自分は描けないのか?こんなにも私は絵が下手なのか?何故私はここにいるんだ?』

 

体験学習が終わった時。目の前が真っ暗になって。そこからは気にかけてくれた講師の人とも連絡を断ってしまいました。

本当は行きたかったはずなのに、そこから暫く絵の事を考えたくないと思う程絶望していました。悔しかったです。

だから絵を描こうとペンを握っても楽しくなかったんです。母に「最近絵を書くのが上手く出来ない」と相談しました。すると母はこう言いました。

 

「・・・本当は絵を描くのが好きじゃないんじゃない?」

 

心に深く突き刺さりました。諦めたようにそう言われて、もう絵を描く事なんてどうでも良くなりました。

ネットサーフィンや動画見てるだけだって楽しいし、何も絵にこだわる必要なんかないって。私はどうせ絵上手くないし、って。暫くの間絵を描く気にはなりませんでした。

 

 そして就職が出来ない上に何を目指していいやら分からなくなった私は職業訓練校に通い始めます。PC関連の訓練校で、暫く通っていました。

 

その前後に、障害者の伯母が家から出る事が決まります。ヘルパーさん付きではありますが実質一人暮らしです。

やっと。やっとここに来て離れられる日が来たんです。

 

何故か私は伯母が暮らす事になったマンションに一緒に見学にも行きました。

 

この時の私が何故こんな行動を取ったのかは未だに分かりません。曲がりなりにも心配していたからか。何故か興味が湧いたんです。不思議なものです。

 

そうして伯母が離れてからはまともに会っていません。住んでる場所もなんとなくしか分かりませんが、今は憎しみだとか恨みだとか言う気持ちはあったりなかったり。

思い出してはよみがえり、そしてまた日常へ。母が時々用事で会いに行っているのをたまに聞いたりする程度なので正直なんとも思っていません。所詮、過去は過去ですから。

 

それで父・母・私の三人での暮らしが始まりました。内心『これで普通の家庭に戻った。ここからようやく家族での生活が始まるんだ!』と思っていました。

 

しかし現実は真逆でした。

 

母は介護の仕事で足を悪くして関節リウマチを患っていました。

仕事も辞めざるおえず、掃除の仕事をしたり惣菜屋さんの仕事に就いたりしましたが長く続かず。酷い時は一時サポーターがないと動けず、歩くのもしんどそうでした。

そして父ですが、元々パチンコで働いていた時の突発性難聴持ちで片耳が遠いです。

それにこの時謎の皮膚炎で背中が痒いとか痛いとかで母か私のどちらかが夜薬を塗るのが日常でした。

それだけでも問題あるのに、この三人暮らしが始まって暫くした夏のこと。父が脳梗塞を発症。急にろれつが回らなくなり、意識が朦朧としていたので救急車で運ばれそのまま病院へ入院しました。

私がネットで症状を調べて救急車を呼ぶ決断をしたのですが、お医者さんによるとけっこう危なかったようで対処が遅かったらどうなってるか分からなかったそうです。

 

・・・それから母と私で病院へ通う日々が暫く続きます。この辺の記憶はあまりないのですが、確かこの時期に職業訓練校に通うのを辞めてます。

これが原因かどうかは定かではないんですが、休み癖で追いつけなくなったのか、それとも父の脳梗塞で病院通いしたからか。どちらかなのか・・・それとも両方なのか・・・。

その年いっぱいは確か通院に追われたりして、ハローワークに相談に行ったのはまた落ち着いてからだったと思います。

 

確か年が明けて暫くした時だったか、通信教育で心理学の勉強をしようと決めて一時教材を取って勉強していました。カウンセラーにも興味があった為、勉強してなってみたいと思ってたんです。

ですがそうしている内に職業黒歴史パート1がやってきます。

職業黒歴史パート1・占い師の手伝い

母が「良い仕事がありそうよ!」と言って私を一人の女性の所へ案内しました。今思うと何でああなったのやら、思い出したくもありません。

その女性はちょっと年のいったおばさんだったのですが、経営する事務所に案内されました。若い男のスタッフさんが隣にいたのを覚えています。

 

その人は占い師だそうで、母がお世話になっていると聞かされました。話してみると物腰柔らかな優しい人で、事務所も綺麗だし丁寧な口調でした。

どうやら私が仕事を探している、と聞いて開設したばかりなのでこの占い屋の宣伝をしてみない?と聞かれました。PCが出来ると母から知っていたようで、これを活かして仕事にしてみないかと。

「仕事になるんなら!」と当時思っていた私はこの話に乗りました。メールのやり取りを重ねて、とりあえずTwitterなどで宣伝してみました。PCの仕事でしたし正直やり甲斐はありました。

 

・・・ですが急に暗雲が立ち込めます。

宣伝をして1・2ヶ月。暫く、母が「給料が振り込まれてないんだけど・・・」と言い始めたのです。そして宣伝していたURLを覗いてみたらサイトに繋がりませんでした。

 

「は・・・?」と一瞬何が起こったかさっぱり分かりませんでした。

それからメールを送ってみたのですが何故か返信がありません。

その占い師が経営していた事務所は一つではなかった為、もう一つの事務所に私一人で事情を聞きに行くとそっちにも給料未払いで問題になっている事が発覚。私達親子は宣伝だけさせておきながら、使えないと分かったのか何の連絡も切り捨てられたのです。

思い出すだけでもう許せません。頭に来ます。

 

・・・・・元々Twitterの宣伝だけで稼げるなんて上手い話があったのもおかしいんですけどね。けれど連絡なしに宣伝だけさせる上サイトと本人まで蒸発って。あの占い師には本当頭にきます。今頃何してるのか知りませんけど。

 

そんな事があってもやはり仕事がない私。心理学の勉強もいつの間にやら辞めてしまい、ハローワークへ相談に行ったり求人誌を眺めたりする日々です。

そんな中職業黒歴史パート2です。これも本当に思い出したくなくて、正直嫌な思い出でしかないんですが一応書きます・・・。

 

職業黒歴史パート2・家電量販店セールス

私はとある派遣の広告を見つけて応募します。もうこの際派遣だろうがパートだろうが何でも良かったんです。とにかく職に就きたかっただけですから。

そこは家電製品のセールスマンを派遣する会社で、大手家電量販店とも繋がりがあり上手くいけば市内の中心部で働けるようでした。お店の中でお客さんに声をかけて商品をオススメして売る仕事ですね。

 

・・・・そこでトラウマが呼び起こされる事になろうとは思いもよりませんでした。

 

派遣される流れの説明を聞き、いざ接客練習へ。商品の説明を頭に入れて話す、と分かっていました。

頭では分かっているんです。今思えば私既にここから何かおかしかったなと思います・・・。

 

を目の前にして話そうとすると頭が真っ白になり、何にも言葉が出てきませんでした。

練習だと分かっているのに、「◯◯は△△ですか?」と聞かれても何一つ言葉が出てこなくて。

 

嫌な汗が流れました。そして言葉が出てこないショックでずっと塞ぎこんでしてしまい、泣きながらその派遣は辞めざるおえませんでした。

 

こうなったのには心当たりがあって、小学校の頃野外学習で商店街に出た時の事。

グループに分かれて一人ずつ街の人にインタビューするんですが、私は勿論そんなのやりたくなかったです。話し下手だし、知らない人に話しかけるのがとても苦手だったんです。

 詳しい原因はこちらから↓

小学校前半まで。知的障害の伯母から受けた私のトラウマ。

小学校後半にてベジータに人生を狂わされた話


 インタビューの出番が来てしまい、あちこちウロウロして「早くしてよー」「まだー?」「もう誰でもいいからー!」と急かされる中一人の女性に話しかけようとします。

でもどうやらその人は商店街の人で、街行く人でなかったらしく「もういいよ」と話しかけた瞬間引っ込められて集合場所に戻されました。

この時から人に話すのなんて向いてなかったんです。

 

なのに(どうにかなる)(きっと出来る)と根拠のない自信を掲げてしまいこの有様。

よっぽどトラウマだったのか、メールの送信履歴を遡るまでこの派遣での出来事はすっかり忘れていました。だから今この文章打ってる最中ちょっと憂鬱です・・・。

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いくら相談しても、適職診断しても、何も解決しないと考えた私。

求人広告を眺めるのにも嫌気が差してきたので気になったところがあれば応募して面接を繰り返します。

 

そうしてようやく、とあるスーパーに就職が決まります。一応パートみたいな立場でしたがそれでも良かったんです。

結局スーパーに務めるまでに1年半以上も紆余曲折を経てしまいました。こうして振り返ると色々あったなと思います・・・・だいたい思い出したくない事ばっかりでしたけどね・・・。

 

ちなみに脳梗塞は早い段階で処置出来た為、寝たきりにはならず父は家に戻ってきました。普通なら寝たきりでも不思議じゃないのに・・・とにかく悪運が強いんです。父は・・・。

そして一回この時期のどこかで父が自殺未遂してるんですが細かい時期は覚えてないです。それにスーパーに勤めてからもう一回あったので原因はそちらでお話するとしましょう。

 

次は3年間務める事になるスーパーの品出し編です。

ですがここもまた思い出したくもない地獄で、尚且つ家庭環境も更に荒んでいく事になろうとは・・・。

 

 ここまでの長文、読んでくださり有難うございました。

次の記事はこちらです↓

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